ピアッジオ博物館 リカルド理事長インタビュー
リカルド・コスタグリオラ氏 ピアッジオ財団理事長 (ピアッジオ博物館 総責任者)
インタビュアー 平井健三 コネクティングロッド 会長
―本日はお忙しい中、インタビューをさせていただく時間をお取り頂きありがとうございます。リカルド理事長は、長年ピアッジオ社で要職を歴任され、特にアジア担当や戦略担当などの業務を行ってきました。現在はピアッジオ財団の理事長としてピアッジオ博物館の運営や地域貢献などに携わっていらっしゃいます。また、大学の講師も兼任され「グローバリゼーション」などの講義も行っています。
私は日本との関わりあいも深く、何度も日本に行ったことがあります。1990年に日本の自動車メーカーとジョイントベンチャーとして業務提携をして、4輪商用自動車の製造と販売のプロジェクトを始動させました。今でも、ここポンテデーラ工場では4輪商用車を製造してピアッジオ社の商用自動車として販売をしています。その当時、業務提携先の工場が群馬県にありましたので、ピアッジオ社の社員300人とともに3ヶ月間滞在しました。その間に私は多くの日本文化にも触れることができて、すっかり日本が大好きになりました。
―日本に3ヶ月も滞在された経験があり、しかも日本を気に入ってくれて大変嬉しいです。ピアッジオ関係者に親日の方がいらっしゃるとは、日本でベスパを扱う者として大変心強いです。ちなみに、その当時の交流やエピソードは有りますか。
休みの日には、イタリア人と日本人で多くの交流がありました。特にサッカーはよくしました。またイタリア人と日本人の結婚も有りました。大変良い想い出です。
ピアッジオ社の歴史とベスパの開発について
―それでは、ピアッジオ社の歴史や成り立ちについてお伺いします。
ピアッジオ社は、1884年に創業者であるリナルド・ピアッジオ(Rinaldo Piaggio)氏が20才の時に、船舶用の木製インテリア・キャビネットを製造する会社としてスタートしました。次に電車を製造する会社となり、ヨーロッパ中の鉄道会社から多くの仕事を受注していました。
その後、飛行機のエンジンを製造するようになり、ついには飛行機を製造する会社となりました。もともと、ピアッジオ社の本社があったジェノバの工場は、土地が狭く飛行場の確保が困難であったので、海上を利用する飛行艇も製造していました。第二次世界大戦中は、多くの戦闘機も製造していました。そして第二次世界大戦敗戦後、VESPAを製造することとなりました。
―ピアッジオ社は約130年も前に創業した歴史ある会社なのですね。
ピアッジオ社の長い歴史を見ますと、船具から始まり、電車、飛行機、そして二輪車というように主力商品を、その時代に合わせたものに業態を変えながら成功しています。このように業態を変えながら成功している会社は珍しいと思います。言い換えると、世の中のニーズを作りながら業態を変えているクリエイティブな会社ではないでしょうか。
ピアッジオを支えたのはトスカーナ地方の互助精神
―現在の主力商品の一つである、ベスパはどのような経緯で開発されたのでしょうか。
第二次世界大戦当時、ピアッジオ社は戦闘機や飛行機を製造していました。大戦末期にポンテデーラ工場は連合軍により空爆され、工場および周辺は焼け野原となりました。敗戦後、当時のピアッジオ社社長エンリコ・ピアッジオ氏は、荒廃したヨーロッパの人たちの移動手段としてオートバイに目をつけ、ヘリコプターの創始者とも言われるコラディーノ・ダスカニオ(Corradino D'ascanio)氏に二輪の開発を依頼しました。
VESPA試作車であるMP5、MP6を経て、1946年4月にVESPAの市販モデル第一号であるVESPA98を販売することとなりました。エンリコ・ピアッジオ氏はVESPAの成功により、見事にポンテデーラ工場の再建を果たすこととなったのです。
―エンリコ・ピアッジオ社長(当時)は、世の中のニーズを探すことに成功したということですね。
ピアッジオ社の今日の成功は、ただ単にニーズを掘り起こした事だけでは無いと思っています。成功の裏には、このポンテデーラが立地するトスカーナ地方の「協力し合う」という風土が有ったためと思っています。このトスカーナ地方にピアッジオ社があったからこそ、敗戦後の荒廃した厳しい時期にも、社員が協力し合いここまで成功したと言っても過言ではないでしょう。
ピアッジオ財団とピアッジオ博物館について
―次にピアッジオ博物館を運営しているピアッジオ財団についてお伺いします。
ピアッジオ財団は、1994年にポンテデラ市とピアッジオ社によって設立されました。その主な目的は、1884年創業のイタリアでも歴史の長い企業であるピアッジオ社の資料を収集することにあります。
ピアッジオ財団は、ピアッジオ博物館の運営以外にも業務があります。それは、技術者や学生、芸術家などの「交流」です。技術者同士の交流会を開催したり、小学生~大学生の見学会を開催したり、芸術家の作品を展示したりしています。2週間ほど前にも、コンパクトエンジンの技術コンペディションを開催しました。日本からも技術者が参加していたと記憶しています。
来週は、イタリア中の大学生が集まり、デザインやテクノロジーのコンペディションが開催されます。この様に人材育成機能も重視しています。将来に向けてのテクノロジーのマッチング、創出、ヒント・・。こういったことに貢献しています。また、産業だけでなく、芸術分野も支援しています。若いアーティストたちの発表の場としても提供して育成しています。そのほかに、ピアッジオ博物館では独自に工場、文化、環境分野などの研究を行っており、書籍も出版しています。ピアッジオ財団は、「知」を発信する場所と思っています。
ピアッジオ博物館は未来に向けてのインスピレーションを受ける場
―なるほど、ピアッジオ財団は、地域に貢献する企業メセナとしての機能も有しているのですね。それではピアッジオ博物館についてお伺いします。
ピアッジオ博物館は2000年に開館しました。この博物館のある建物は、Vespaを製造するためのプレス台などを製造していた工場です。戦後、Vespaの生産に必要なサプライヤーがいなかったので、工具やプレス台なども自分たちで作る必要がありました。その当時、この工場群には、12,000人もの従業員が働いていました。
Vespa、Ape、Gileraブランドを中心に数多くの車両を展示しています。Vespaでは試作車両のMP5、MP6、そして市販車第一号の98、その他スピード記録を樹立したVespaや映画で使用した車両、画家ダリがペイントした車両など、数多く展示しています。また、Vespaグッズを販売しているショップも有ります。
―どのような方たちが来館しているのでしょうか。
このピアッジオ博物館には、一般の人のほかに、社内・社外を問わず多くの技術者・デザイナーが来館しています。このピアッジオ博物館は、ただ単に過去を見るだけの博物館ではありません。未来に向けてのインスピレーションを受ける場なのです。資料を収集・整理し、それを展示する。そして様々な世代や業種の人が集い・交流し、過去のメッセージを受け止め、イノベーション(革新)のためのインスピレーションを受ける場なのです。先日のEICMAでも発表されたVespa946の開発チームの技術者も、数多く来館しています。
―一般では、どのような方たちが来館していますか。
ピアッジオ博物館には、年間約4万人の来館があります。そのうち60%が外国人で、主にVespaマニアや世界各国のベスパクラブのメンバーも多いです。
―今後の展開などありましたら、教えてください。
博物館の倉庫には、展示しきれない車両が数多く有ります。まもなく改装して展示面積を2倍の広さにする予定です。このポンテデーラの近くには、フィレンツエがあり、日本人にも人気の観光地があります。フィレンツエS.M.N駅からポンテデーラ駅までは電車で約45分。日本の観光客の方で、フィレンツエに来たら、是非ポンテデーラのピアッジオ博物館に立ち寄ってもらいたいです。
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